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桜花賞予想の醍醐味。

先日知り合いの誘いで久しぶりに落語を見に行く機会があった。
演目は知っているモノばかりだったので落ちに関しては事前に知っている。
それでも楽しめるのが噺家達の芸の素晴らしさなのか。
それとも、何度聞いても面白いと思える演目自体の素晴らしさなのか。

今回感心させられたのが、噺家達の演目に突入するまでのマクラの部分。様々な時事ネタを話しながら場の空気を作り上げ、すーっと演目が始まる。全ての噺家のマクラ部分が面白いわけではないが、今回の噺家達のマクラ部分の話は非常に面白かったし、マクラ部分の話で醸成された雰囲気が、その演目とマッチし演目自体も俺自身のイメージしている雰囲気や世界観をかもし出してくれていて、予定調和を最高に堪能できる落語参戦だった。

普段競馬という予定調和のありえない世界を主戦場にしていると、時折予定調和の中にある安心感みたいなモノに触れたくなる。そういう意味では落語は非常に有意義な娯楽だ。

TVのドラマや映画の原作が小説である事は多いが、自分のイメージしているキャスティングや風景が映像でドンピシャでマッチする事はとても少ない。

なんであの主人公がこのキャストなんだよ・・・。
えー・・・なんでこの風景描写を読んでこんなロケ地で撮影できるんだよ・・・。

などなど、監督の世界観を疑う事も少なくないわけだ。
だから、基本的には原作を読んでしまった映画やドラマには興味が沸かない。

基本的に俺は予定調和になって欲しいモノが予定調和にならない事、予期が予期でなくなることに対しての耐性が低いのだろう。

耐性が低いからこそ、逆説的に俺は競馬を愛しているのだと思う。
落語のように予定調和や予期を満たしてくれるエンターテイメントとは真逆の、予定調和や予期がまったく通用しない競馬だからこそ、予期(予想)をした通りの結果が出た際に訪れるアドレナリン放出の快感を求め日々情報集めなどをしてしまうのだろう。

予定調和のエンターテイメントからは得られない快感である。

勝利する事が予定調和のような扱いを受けていたキズナの敗戦で、こんな事を考えながら、やはり競馬というコンテンツは本当に面白いと再確認した1週間だったわけだ。

とある大学の教授が『予期』というものに関しての考え方をとある講義で述べていた。

「原理的に考えれば不確実で不透明な世界なのに、人間がなぜ平気で生きていられるのか。それは、人間には「期待する」という能力があるからです。過去の体験をもとに、現在や未来について勝手に思い込むこと、それがここで言う期待です。日本語の「期待」には良いことが起きることを望むという意味合いがありますので、この講義では、過去の体験等をもとに何かを思い込むことを予期という言葉で述べることにします。」

・思い込む事で複雑さを処理している
・思い込み=予期

教授は続ける
「今日も明日も昨日までとたいして違わないだろう(だからいつものようにすればいいだろう)と思うといったのが予期です。別の言い方をすれば、慣れるということです。時間のたつうちに、なんとなく分かってくる(分かったつもりになる)。この予期は、絶対的な真理だとか確実性に基づくものではなく、根本において、人間が勝手にそう思い込んでいるものです。極端な形は妄想ですが、私たちは、多かれ少なかれ、こうした予期に支えられて、日々を平穏に過ごせるわけです。人間の予期の根底には、世界や人間が全くデタラメではないということへの信頼が潜んでいる。そして、基本的には、そのように思うことでうまく行っているということが、予期を保証する。」

・予期は、それでうまくいくということだけを根拠にしうる

そして・・・
「別の点からみれば、「とりあえず気にしなくてよいこと」として意識しないで済むようになること。ある意味で「欺いている」。何かを当たり前だとして導くもの、そうするのが当然だと思わせるもの、それが予期です。思った通りに行かなかった時に、はじめて意識することができるようなものとして、私たちの中にしみ込んでいます。そうした予期の中には、非常に具体的なものから抽象的なものまで様々ものがありますし、複数の予期が組合わさっている束のようなものもあるでしょう。こうした様々の予期を支えにして、私達の「当たり前の日々」がなりたっていて、そうした予期に導かれて、私たちは日常の行動を行うわけです。色々な「当たり前」や「そういうものだ」というものに囲まれる中で、「こうすればいい/こうするのが普通」という感覚に誘発されて行動がなされるわけです。また、何が「あたりまえ」が分かっているから「あえて」何かをすることもできる。このように、人間の行動は予期に支えられているわけです。」

さらに・・・

「さて、とりあえず~だろうと思い込む、そのことによって、さらに多くのことを「分かる」ようになります。世界の複雑さの体験を「思った通りだった」「思っていたのとは違っていた」という図式で整理して受けとめることができるわけです。このように、予期によって、世界の複雑さの問題が、予期の確実さの問題へと変換できること。ここに予期というものの意味があるとも言えます。勝手に思い込むことが人間の偉大な能力だというのは、変な話かもしれません。妄想や誤解から理性によって真実を見出すのが人間という存在の素晴らしさだといった話とは反対ですから。でも、日々を当たり前に過ごせるということの土台は、妄想できる人間の予期能力が支えているのです。ですから、私たちが生きて行くためには、宇宙や社会のすべての真理など必要ない。日々の行動を導いてくれる予期さえ確保できればよいわけです。とりあえずの手がかりさえつかめたら、そこからなんとかできる。」

そしてこう締めくくる。

「予期ですが、いくつか分類することができます。まず一つの分類。こちらは予期であることが意識されているかどうかで分けます。

1・消極的予期:意識されることすらない予期。何かを当たり前だとか普通とか思うこと、外れるなんてありえないと思っていること。自明性は、こうした消極的予期が支える
2・積極的予期:たぶん~だろうと、ある程度予期であること、つまり外れることもあるかもしれないこと、が意識されているもの。

予期は、最初は積極的予期だが、そのうち、消極的予期として意識の中に染み込んで行く(沈み込んでいく)といってもよいでしょう。

もうひとつの予期の分類。こちらは予期が外れたときの対処の仕方で分けます。

1・認知的予期:予期が外れたときに、予期の方が間違っていたと修正したり学習したりするもの
2・規範的予期:予期が外れたときに、外れた事例や人のほうが例外的なもので、予期の修正は行われない

法則だとか法というものは、規範的な予期であるということができます。「規範」という堅い言葉が出てきますが、これは普通に使っている「したがうべきもの」という意味合いではなく、「したがわないモノが<悪い>とできること」というぐらいの意味で受けとってください。自分が思ってたようにならなかったときに、自分が間違っていたと思うのが認知的予期、相手や状況が異常/例外/おかしい/悪いと思うのが規範的予期、ということです。

世界は複雑で不確定的ですから、予期は、外れる(失望)が不可避です。予期が外れるような事態が起こったときに、それにもかかわらずその予期を修正する必要はないとき、また、その判断が他の人たちにも受入れられると思えるとき、その予期は規範的な性格をもつことになります。」


桜花賞・・・
ルージュバックが勝つ。

この予期とも予定調和とも取れるムードに、どのような視点で積極的予期を行うか?

桜花賞楽しみだ。


じゃーな!


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